「共感はいらない」
これだけ聞くと、強がってる人のセリフみたいだけど、そうではない。
無駄なことだと思いながらも それでもやるのよ
意味がないさと言われながらも それでも歌うの
理由などいらない
少しだけ大事な物があれば それだけで
(中略)
みんなが嫌うものが好きでも それでもいいのよ
みんなが好きなものが好きでも それでもいいのよ
共感はいらない
一つだけ大好きなものがあれば それだけで
(後略)
(星野源「日常」より)
当時、私は育児真っ最中で、なんとか周りの仲良しママ友グループに加わろうと必死になっていた。子育ての「困った」「大変」「嬉しい」の全部をみんなと共有したかった。
「共感はいらない」
このフレーズが聞こえてきた時、社長室に置いてありそうな、そこそこ大きい陶器の置物で頭をぶん殴られたような衝撃を受けた。(昭和のドラマか)
すぐに飲み込めなくて、繰り返し曲を聴いた記憶がある。
ーーーあれ?
そもそも私、昔から一匹狼タイプだった。何をそんなに頑張ってたんだろう。
目が覚めた。
その後もマイノリティ寄りな育児をする中で、この言葉は何かとお守りのようになっていった。
SNSのおかげで、誰でも「好き」を共有しやすい時代になった。
「いいね」して「シェア」して、仲間を見つけて一緒に「好き」を愛でて楽しむ。
かなりニッチな趣味でも、「好き」を発信し続けていれば同じ趣味の人が見つかる。
これだけ趣味の幅が広がっていても、仲間が見つかるのはすごいことだと思う。
中学生の頃、友達がジャニーズに熱を上げる中、私は「刑事貴族」の水谷豊と寺脇康文に恋していた。(当時、毎日夕方に再放送していた。)
たぶんちょっと変わった子だったろうけれど、ネットもスマホもない時代だったし、誰かと「好き」を共有しようだなんて、思いつきもしなかった。
自分の中で好きでいることが、ただただ楽しかったし幸せだった。
もしもあの頃、インスタがあったら、Xがあったら、TikTokがあったら…
私は誰かと「好き」と共有していただろうか…。
いや、あえて誰ともつながらない選択をしたかも。
たったひとりで、ひとりの世界にこもって、心を「好き」でいっぱいにする。
そこにあるのはただ、「好き」の対象と自分だけ。
他の何からも邪魔されない、自分ひとりの世界。
それもまた、とても自由でとっても豊かだなと思う。
2025年8月2日